2018年12月22日 (土)

【お知らせ】 子ども会情報紙『ひとりから』に法話「自分の影と鬼ごっこしよう」掲載

 真宗大谷派青少幼年センターから発行されている子ども会情報紙『ひとりから』の「子どもたちと聞く法話」コーナーに「自分の影と鬼ごっこしよう」と題した法話が掲載されています。ぜひ、ご覧ください。
 
 
 本文はPDFでお読みいただけます。
  ↓
http://www.higashihonganji.or.jp/oyc/publication/pdf/2018_03_hitorikara.pdf

2018年1月 7日 (日)

【お知らせ】 『ひだご坊』326号に文掲載

 真宗大谷派高山教務所から発行されている『ひだご坊』に書かせていただいたのですが、その文はインターネット上でご覧いただけます。ぜひお読みください。

 ↓

http://hidagobo.jp/site/wp-content/uploads/2016/10/59b8da6070dc68eeba88ef2b3ab18cb9.pdf

2017年6月29日 (木)

【お知らせ】 「メリシャカ」にインタビュー記事掲載!

 「もっと身近に仏教の教えに親しめる場を持とう!」とのコンセプトのサイト・メリシャカにインタビュー記事が掲載されました!
 
 釋亜世(松田亜世)の音楽遍歴満載です。
 
 →僧'sミュージックVol.10 松田亜世
  【http://merry-shaka.com/?eid=974
 

2017年3月15日 (水)

【雑記】 人は大地で助かる

 「助けて~」

 

 最近椅子に座る僕の膝に乗った娘が、前かがみに地面に顔と手をつけてよく叫ぶのです。自分の身体から手を離さず引き上げて欲しいということのようですが、実際には地面に落ちた方がこれ以上落ちようがなく、ある意味助かったということになるのでしょう。

 

 そんな些細な日常の一コマから、人は大地で助かっていくということにあらためて頷かされました。今がすべてであり、今が「そうなっている」以外の何物でもないので、何かにしがみつくことよりも、手を離してこれ以上落ちようのない大地に助かっていくことが急がれるべきことのように思います。

 まさに「自己とは他なし。絶対無限の妙用に乗托して、任運に法爾にこの境遇に落在せるもの、即ち是なり。」(清沢満之)であります。

 

 

 「摂取不捨は、毎瞬毎瞬の救い」ということを教えられたのですが、これ以上手足の出ない今という厳しさは当然あるのですが、手足の出ないということは手足を出さなくてよいということであるとの先達の声が聞こえてくればまた、阿弥陀さんは「そうなっとるやろ?」とニヤリと微笑んでおられるような気がするのです。

 

2016年6月 6日 (月)

【雑記】 不思議なり、この人生

 昨日37回目の誕生日を迎えることができました。沢山の方々からお祝いのメッセージもいただき、随分久しぶりに母親からの誕生日プレゼントが届いたり、有り難い一日でした。
 
 
 生まれた瞬間から今日まで、止まることを知らず、確実に老いつつあるこの身において、37年よう生きてこられたなぁということを誕生日の朝を迎えて感じました。やがて確実に迎える「死」まで残された時間は、誰にもわかりませんが、漠然と人生の折り返しは過ぎたような気がしたのかもしれません。しかし、人間の尺度で人生の長さを考えても、それはあまり意味がないようにも思います。
 
 
 ”一切”が自力無効のこの身において、今在ること、それはそれは不思議なことに違いありません。如来の想定する”一切”の世界は、実はそれはそれは厳しい真実の世界です。一切の不思議です。
 
 最近、如来さんはどこまでもお節介な方やなぁということも思います。逃げても逃げても、いや、真実から逃げることしかない我が身を、一切の自力無効を知らしめるが如く、どこまでもどこまでも追いかけてくる・・・。まったく、我が足元を離れず一切の工夫を許さない影を作り出す光のように。
 
 



Img_2202 奇しくも私の誕生日は、清澤満之先生のご命日の前日です。昨日のお夕事は、清澤先生のご命日の逮夜と兼ねて、「清沢満之先生讃仰」和讃をお勤めしました。
 
 
 「生のみが我等にあらず、死も亦我等なり」
 
 「生死はまったく不可思議なる他力の妙用(みょうゆう)によるものなり」
 
                        (清澤満之『絶対他力の大道』より)
 
 
 

2016年3月28日 (月)

【雑記】 命懸けのこの一瞬

 つい先日、輪袈裟を買うために、我が家からほんの徒歩1~2分の近所にある法衣店に出かけた時のこと。
 

 「気をつけていってらっしゃい」の声に「すぐそこまでのことやから」とは言ったものの、「近くても何が起こるかわからんやろ」との再び嫁さんの声にハッとした。
 
 
 私たちは一瞬一瞬命懸けで生きてる!
 
 私の人生におけるすべての一瞬に、この私のすべての命が懸かっていたのだ!!このことに驚きを隠せなかった。それが、ほんのわずかな瞬間であったとしても、何が起こるかわからないのがこの人生、この世の真実であってみれば、それも何ら不思議なことではないのだが…。
 
 
 ここに至ってみると、よくもまぁのんきに生きている毎日かと思い知らされる。
 
 こうして今、文章を書いている一瞬も、私のすべての命がここにいるこの私一人に懸かっているという厳粛なる人生の真実。
 
 逃げも隠れもできないまるごとの瞬間が今も続いているのです。
 

2016年3月27日 (日)

【お内仏[ないぶつ](仏壇)に座る ④】  ~仏花について~

Bukka 今回はお花を備えることについてみていきます。花瓶(かひん)を左の写真の位置に置き、四季折々の木に咲く花、草花などをとりまぜて挿します。お仏花には常に生花を用います。なお、中陰中には色花は用いません。
 
 では、なぜ生花を用いるのかについて少し考えてみたいと思います。切った生花は、お水を差さなければ枯れてしまいます。もっといえば、水を差していても、いずれ花は必ず枯れてしまいます。このことは、私たちが誰一人として例外なく、いずれ必ず死を迎えるこの身を生きているということを教えてくださる仏さまのはたらきを表しているともいえます。不平等なことだらけの世の中にあって、「死」は一切の人が平等に背負う真実です。自分の思いどおりにならない、ままならないこの人生の象徴といってもいいかもしれません。
 
 ともすれば、私たちはお花を仏さまに「供える」と思いがちですが、お花は仏さまの方ではなく、私に向けて備えるのです。そして、「供える」ではなく「備える」という字を使うことにも注目してみてください。備品の「備」には、「不足なくすでに備わっているもの」という意味があります。仏さまの世界、「お浄土」にすでに備わっているはたらきを、人間の目に見える形で、私が代わりに「備える」のです。そして、お花を備えたご本尊の前に身を据えて手を合わせ、「死」を背負いながらも今ここに在る、誰にも代わることも代わってもらうこともできない「私」を確かめる営みが、お内仏(ないぶつ)の前に座るということなのです。
 

(釋亜世)

【お内仏[ないぶつ](仏壇)に座る ③】  ~宗祖親鸞聖人(1)~

Soshi2015 報恩講(ほうおんこう)とは、親鸞聖人の御命日をご縁としてお勤めをし、仏法を聞き、お斎(とき)を食し語り合い、丸裸の”ひとり”として私自身と出遇った者同士が朋(とも)として出遇う場です。
 
 私たちは、親鸞聖人を宗祖(しゅうそ)としていただいています。では、親鸞さんとはどのような方だったのでしょうか?親鸞さんの90年の生涯をこの紙面で語りつくすことはできませんが、一言で言えば、親鸞さんは「決して人間を誤魔化さなかった人」であろうと思います。
 
 親鸞さんは9歳でお坊さんになり、29歳まで比叡山(ひえいざん)で修行をされます。その当時の仏教は、一生懸命修行(努力)をして、それを成し遂げた人が救われていくようなものが主流でした。しかし、どれだけ真面目に修行に打ち込もうと、真面目になりきれない人間の本性に気づかされ、それと格闘し、最後には山を下りたのが親鸞さんです。例えば、肉や魚を食べずとも、米や野菜を育てるにも土を耕し虫を殺し、他のいのちを奪わずには食べることさえ、生きることさえできない人間の有様を誤魔化さず、まるごと包み込む教えを示してくださったのが親鸞さんなのです。
 

(釋亜世)
 

2016年1月17日 (日)

【お内仏[ないぶつ](仏壇)に座る ②】  ~本尊<一番大切なこと>~

 「お内仏に座る」のコーナーでは、皆さんのご家庭にあるお内仏(仏壇)についてのアレコレを連載します。(浄泉寺報第2号[2015年秋彼岸発行]から転載)
 

Img_0392 浄土真宗のご本尊は阿弥陀如来(南無阿弥陀仏)です。私たちは、仏様といえば人間のような姿かたちをした仏像や仏画をイメージしてしまいます。しかし、仏様とは本来姿かたちあるものではなく、私一人の姿をありのままに映し出してくださる鏡のような大きな「はたらき」なのです。あるいは、私自身の誤魔化しのきかない影を照らし出す光のような「はたらき」といってもいいと思います。ところが「はたらき」といったところで、人間には何のことやらさっぱりわからないので、姿かたちある仏像や名号(「南無阿弥陀仏」や「帰命尽十方無碍光如来」、「南無不可思議光如来」といったことば)で表わすことによって、はじめて私たちは私の真実を知らしめるその「はたらき」に手を合わすことができるのではないでしょうか。私たちが亡き方を通して仏様に手を合わせるきっかけをいただいたのと同じように、お釈迦様という人を通して、仏様の大きな「はたらき」に出遇った人たちが、お釈迦様をモデルとして今日仏像として伝わっている姿で仏様を表現したのではないかと思います。
 
 仏様を表わす「如来」という言葉は、「如」から来た、つまり真実から来たという意味です。そのような仏様の大きな「はたらき」に出遇ってみれば、私という人間は「どこまでも真実に背く者であったなぁ」ということだけが見えてきます。自分では絶対に気づくことのできない、直そうとしても直せない「自分」を仏様は教えてくれるのでしょう。
 
 そのように真実から逃げる私を追いかけて、「これでもか!」と私に私の真実を教えようとしている真剣さが、私たちがいただくご本尊・阿弥陀様の”立って”いらっしゃる姿に表わされているのだと感じます。太陽が真東から昇り真西にまっすぐ沈むこのお彼岸、ご本尊に向き合うことをとおして、決してまっすぐには歩ききれない私を教えられることです。
 

 

(釋亜世)

 
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Mitsuorihonzon仏壇を置くスペースがない場合には、このような小型の三折本尊もあります。立派な仏壇でなくとも、生活の場にご本尊を安置することが大切です。中央に阿弥陀如来立像、向かって右側には「帰命尽十方無碍光如来」、左側には「南無不可思議光如来」という2つの名号で阿弥陀様のはたらきが表現されています。

2016年1月 5日 (火)

【お内仏[ないぶつ](仏壇)に座る ①】  ~私がそこに座る~

 「お内仏に座る」のコーナーでは、皆さんのご家庭にあるお内仏(仏壇)についてのアレコレを連載します。(浄泉寺報創刊号[2015年夏発行]から転載)
Folkcraft_02 
 
 まずは、左の写真をご覧ください。何か足りないものはありませんか?
 
 
 位牌?遺影?
 
 ちょっと意地悪な質問だったかもしれません。
 
 写真に足りないもの(正解)は、手を合わせてお参りする人です。お内仏をお飾りすることをお荘厳[しょうごん]するといいます。そのとき、どうしても私たちはお飾りが正しいかどうか、そのことばかりにとらわれて仏壇を単なる物として見てしまいがちです。
 
 しかし、一番大切なことはご本尊[ほんぞん]とその前に貴方が座り、手を合わせることです。「巻頭言(※後述)」でお話したように、仏様の教えという鏡の前に私がまず座らなければ、鏡に私が映ることもなく、何もはじまりません。
 
 浄土真宗では、お仏壇のことを「お内仏[ないぶつ]」と呼び習わしてきました。このことは、外から物として仏様を見れば仏様の壇(仏壇)、私がそこに身を据えることではじめて、仏様の教えが鏡のような役割をしてくださって私を映し出し、はじめて私にとってのお内仏になることを表しているように思います。
 
 ちなみに、皆さんのお宅のお内仏にお参りさせていただくと、ご位牌や遺影でご本尊が隠れてしまっている場面に遭遇します。亡き方を通して仏様の教えに遇った、そのことはとても大切なことですが、亡き方とここに手を合わせて座る私とを一つの世界でつないでくださるのが、浄土真宗のご本尊(阿弥陀如来・南無阿弥陀仏)です。次回は、ご本尊についてお話します。
 
 
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 【巻頭言】
 
 仏教(浄土真宗)は、生活の中にこそあります。葬儀やご法事といった仏事を勤めることはもちろん大切なことですが、そこで出遇った仏教は、その場かぎりのものではなく、私一人の人生に不断に語りかけ続けてくれるものです。
 
 仏様の教え(お経)は、鏡に譬えられます。突然ですが皆さん、自分の眼で直接自分の顔をご覧になったことはありますか?
 
 毎朝顔を洗う時、鏡を通して自分と向き合ってはじめて自分の顔が見えるように、人間の本当の姿は自分の眼で直接見ることは絶対にできません。なぜならば、人間はどこまでも自分を良く見せようと自分をどこかで誤魔化して生きる存在だからです。そんな人間のありのまま、誤魔化しの利かない本当の姿を仏様は見抜いていて、私一人に届けるのが仏教というものです。まさに眠気眼の私の顔を映し出してハッと目覚めさせる鏡のようなものが仏教であり、私を私としてありのままに照らし出す大きな働きが仏様(如来)といわれている存在です。
 
 そして、毎朝鏡を見て自分自身の顔を確かめるように、仏様の教えを通してはじめて「嗚呼、私はここにいるなぁ」と今を確かめ生きていくしかない毎日が続いていくのです。
 
                                  

(釋亜世)

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    ”真宗大谷派僧侶でもあるフォーク・シンガー、松田亜世の5年ぶりのアルバム。ごく当たり前の暮らしを慈しむ心持ちが伝わってくる歌だ。老いを感じる年代になって初めて理解できる心情があると気づかせる「ホームにて」や「迷いの海」などにホロッとする。彼なりの説法かとも思えてくる。”
    (雑誌『CDジャーナル』)


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    ”「越のしらやま」は故郷・加賀の白山をエンヤトットのリズムで唄う。アコースティック・ギターとヴァイオリンをバックに日本の夏の情景を描く「盂蘭盆会」、 3フィンガーのギターが印象的な「渇愛」など、古き良きフォークの味も。”
    (雑誌『CDジャーナル』)


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    “世代の壁を超え、普遍性を持った真摯なアコースティック・チューンだ。” (雑誌『CDジャーナル』)

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    “故郷を離れた者に向けての金沢弁応援歌「がんばるまっし」、花街の悲喜を綴った「廓唄」、漫才師の志を謳った「新宿三丁目」などどれも物語性が高い。初期の長渕剛風の繊細で少し泣きの入った歌声から、世情を変えたいという想いも伝わる。”
    (雑誌『CDジャーナル』)

    “生まれ育った文豪の街・金沢の影響からか文学の香りのする歌詞の世界が素晴らしい。曲風は70年代フォーク/歌謡曲を彷彿させる、しっとりとしながら深い情感のようなものがこもったメロディが印象的だ。”
    (雑誌『Player』)

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