カテゴリー「003.仏像マニアから念仏者へ」の記事

2010年7月14日 (水)

仏像マニアから念仏者へ ③ ~ 親鸞聖人に遇う ~

 仏像マニアであった頃の僕のもう一つの違和感。東本願寺の御影堂(宗祖親鸞聖人の御真影を安置)が阿弥陀堂(本尊:阿弥陀如来)よりも大きいことと、御影堂の親鸞聖人の御真影(お像)についての、僕自身の心の動きを記しておきたい。

 

 

 真宗門徒のお内仏(仏壇)や、一般寺院の本尊はすべて阿弥陀如来である。しかし、本山・真宗本廟(東本願寺)においては阿弥陀如来を本尊とする阿弥陀堂よりも御影堂の方が大きく、様々な法要も御影堂を中心にして行われている。

 

 仏像マニアだった頃、このことが不思議でならなかった。世界一の木造建築ともいわれる東本願寺にそびえる御影堂。東本願寺で最も大きいそのお堂の中心に安置されるのは、本尊・阿弥陀如来ではなく親鸞聖人の御真影(木像)である。その姿は、一種の教祖崇拝のように当時の僕の目には映り、その違和感は簡単には拭い去れなかった。寺院巡りに京都を訪れても、東本願寺には立ち寄るものの、阿弥陀堂では素直にお参りできても、御影堂ではどこか心に引っかかりを感じながら手を合わすことしかできず、立体曼荼羅(殊に不動明王)が待つ東寺や、数多の千手観音さんが迎えてくれる三十三間堂の方に心ウキウキした仏像マニア時代の僕である。

 

 

 

 100714_002101_2 ではまず、御影堂について考える為に『真宗大谷派宗憲』を紐解いてみよう。

 

 その前文には、

「宗祖聖人(親鸞聖人)の滅後、遺弟あい図って大谷の祖廟を建立して聖人の影像を安置し、ここにあい集うて今現在説法したもう聖人に対面して聞法求道に励んだ。これが本願寺の濫觴(らんしょう:物事の起源)であり、ここに集うた人びとが、やがて聞法者の交わりを生み出していった。これがわが宗門の原形である。」

 さらに、

「わが宗門の至純なる伝統は、教法の象徴たる宗祖聖人の真影を帰依処として教法を聞信し、教法に生きる同朋の力によって保持されてきたのである。」と続く。

 

 つまり、親鸞聖人の墓所から始まった本願寺の歴史がまずあるのである。本願寺の前身・初期の廟堂には、親鸞聖人の遺骨と絵像が安置され、それが後に木像の御影に変わっていったらしい。(ただし、親鸞聖人自身は「それがし閉眼せば、賀茂河にいれて魚にあたうべし」(『改邪鈔』)と仰っていたといわれる。)

 

 そして教法、即ち念仏の歴史がある。そのことに思いを致したならば、宗憲前文にある「今現在説法」という言葉にまず頷くことが出来た。親鸞聖人が、七高僧に続いて顕かにされた「ただ念仏」という真宗の教えを我々は、今まさしくありがたく戴いている。親鸞聖人なくして我々の念仏なく、法然上人なくして親鸞聖人の念仏はなく、連続無窮の念仏の歴史に我々もまた立たせて戴いているのである。僕に念仏とのご縁をくれた亡き祖父や、僧侶になってから求道心に目を覚まさせてくれた亡き5人の親族が、僕にとって仰ぐべき諸佛であるのと同じく、親鸞聖人もまた我々にとっての諸佛である。つまり、親鸞聖人の御真影(像)のその向う側にある本願念仏の歴史を感じ、その歴史の中に身を置く自己というものを見つめることこそ、肝要なのである。

 

 親鸞聖人が“今現在説法”する御影堂があれだけ広いのは、多くの同朋が平座で集い、親鸞聖人と膝を付き合わせ聞法し、自らの機の自覚(http://dara.way-nifty.com/blog/2010/07/post-9058.html 【語句説明「機の深信」参照】)の上に立ち、共に語らう場所であるからではないだろうか。そう考えた時、親鸞聖人の声に耳を傾けると同時にその向う側にある本願念仏の歴史を感じ、「私も愚かでありました。」と頷く場所として、御影堂のあの広い空間はあるのではないだろうかとの僕自身の領解に至った。

 

 

 そういう理解が自分の中でされた時、御影堂に対する僕の違和感は変貌を遂げたのである。「親鸞聖人に遇いに御影堂に行こう。」、そんな気持ちが湧いてきた。親鸞聖人の御真影の前で、自らを深く問いたいと思った。

 

 

 そのように感じるようになった後、御影堂の親鸞聖人の像がたまらなく哀しげな表情で僕の心に迫ってくることがあった。今年3月の大谷派教師試験の前日、御影堂で勤まるお夕事にひとり参詣した折のことである。試験に先立って行われた東京練馬の真宗会館での3週間の「短期教師資格取得コース」において様々な勉強をする中で見えてきた、親鸞聖人が顕かにされた教えと現在の宗門の姿との間の矛盾に、僕は少し心を悩ませられていた。夕事勤行が始まるまでのしばしの間、御影堂の畳に座り、ひとり静かに親鸞聖人と相対した時、僕が心打たれたロックな非僧非俗・「愚禿釋親鸞」聖人がとても居心地が悪そうにそこ(御影堂の厨子の中に)座っておられる、ように僕の心には映った。

 

 大谷派教師になって、今一度親鸞聖人が顕かにされた教えを学び、それを語っていきたい。そしてまた、今感じているような矛盾に向き合い、純粋なる真宗の姿を見つめて生きたい、そんな思いを強くして、翌日から2日間に渡る試験に臨んだのであった。

 

 

 仏教には、釈尊の時代から「自灯明 法灯明」ということがいわれている。釈尊はその入滅(死)に先立って、釈尊入滅後の仏教教団(僧伽・サンガ)は誰を指導者としていくべきかと悩む側近の阿難尊者に対して「私があなた方の指導者であるとか、また、あなた方が私に頼っているなどと、私は思っていない。それ故、この世にあっては、自らを灯火とし、自らを所依として、他人を所依とせず、法(真理)を灯明とし、法を所依とし、他のものを所依としてはならない。」と語っている。それが「自灯明 法灯明」というあり方である。

 

 この力強い「私」という真っ直ぐな生き方こそがロックだと思う。「自己とは何ぞや。これ人生の根本的問題なり。」という清沢満之先生の言葉が再び身に染みてくる。

 

 教団(本願寺)の歴史を振り返れば、門跡寺院になる等といった世俗の権威との結びつきや、江戸幕藩体制に寺院や門徒も組み込まれる中で、純粋なる真宗の精神が、一例を挙げれば寺格制度や装束に格式を伴ったりといった形式において、曇ってきたこともまた事実である。力強い群萌の仏道として成立した本来の真宗という教えが、そのことによって哀しいかな見えにくいものになってしまったという経緯があり、我々が今尚江戸幕藩体制の呪縛から抜け出せずにいる面も否定できないと思う。そのことに思いを致し、御影堂の親鸞聖人の像の前に腰を据える時、なんとも恥ずかしい気持ちになるのであった。

 

 

 御影堂の親鸞聖人の像。我々は親鸞聖人をただ仰ぐでなく、親鸞聖人と共に自己を問い、「私」を生きる仏道を歩まねばならないと思う。

 

 

黒衣墨袈裟で同朋と共に並んで、親鸞聖人と膝を付き合わせて念仏を称える姿を、僕は最も美しい真宗の僧侶の姿だと感じる。真宗は群萌の仏道である。

 

 

 

 仏像マニアから念仏者へ。

 

僕のお寺や仏像に対する様々なものの見方が変わってきた。

 

 

 南無阿弥陀仏

 

 

<一旦完>

(『仏像マニアから念仏者へ ④ ~ 副題未定 ~』に続く?・・・)

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【本文用語説明】

 

○『真宗大谷派宗憲』

・・・1981年に施行された真宗大谷派の最高規範。「宗本一体」(教法を中心とする宗門の組織原理で、教法の象徴が真宗本廟であり、真宗本廟を中心として宗門を組織するということ)・「門主制」(門主は門徒の首位にあって教法を聞信する立場であり、同朋を代表して本廟の留守職にあたるという本来の姿に戻った)・「同朋公議」(門徒の宗政への参加により、僧俗等しく法義相続、本廟護持に関わることになった)が三原則として謳われている。

 戦後なお封建的体質を維持していたことに端を発する宗門内部の幾多の困難を乗り越えて制定されたこの宗憲は、戦後の『日本国憲法』を彷彿とさせるような格調高き前文に支えられ、宗門の歴史を踏まえれば読む者に感動すら覚えさせる。この宗憲前文は、現代に生きる我々宗門人が、折に触れ立ち帰るべき場所である。

 

○ 門跡寺院

・・・元来、出家した貴族が住持する寺院のことを称したが、後に最高の寺格を示す称号となった。本願寺は、1559年に門跡寺院の勅許を受け、本願寺の社会的地位は飛躍的に向上したが、以後真宗教団の姿としては貴族化し、沈んでゆくことになる。

 

○ 黒衣墨袈裟

・・・直綴(黒一色で仕立てられた法衣)に墨袈裟(黒色の袈裟であり、親鸞聖人がよく用いられた袈裟である)を付けた姿のこと。これに対し、裳附(もつけ)や色直綴といった色のある衣や五条袈裟等には、僧位等によって着られる色に制限がある。

ちなみに蓮如上人は、本願寺成立以来、天台宗に準じていた法衣を、我々凡夫であり在家の宗であるからして「尊うとげにせぬこと」と当時沙弥(在家僧侶)の衣であった質素な薄墨色に改めた。

2010年7月12日 (月)

仏像マニアから念仏者へ ② ~ 真宗における本尊 ~

 浄土真宗においての仏像、即ち本尊とはどのような存在であろうか?

 

 本尊である仏像の向う側に「南無阿弥陀仏」の名号を感じることが大切である。まず「南無阿弥陀仏」。

 

 真宗においての本尊は、本来「南無阿弥陀仏」ただそれだけであるにもかかわらず、方便法身として仏像を戴かなくてはおれない我々の弱さを自覚することが、そのひとつの意義なのではないだろうか。

 

 

 僕自身は、元々仏像マニアである。であるからして、今述べたようなことは仏像を軽んじるという訳では毛頭なく、しかし仏像を偶像としてしまうには、あまりに勿体ない。真宗の教えはもっと深い。

 

 僕自身の体験でいえば、「帰命尽十方無碍光如来」という十字名号のお軸(掛軸)をご本尊とする真宗会館(東京都練馬区)の講義室において『嘆仏偈』のお勤めをした時に、「なるほど、そうか。」と我々が戴かなくてはならないご本尊を直感的に理解した。我々に掛けられている願い(如来の本願)に、その名号の意味において頷くことが出来たのである。光に照らされて見えてくるのは、我々の影(闇)の世界、即ち煩悩にまみれたなんとも愚かな人間の姿である。そしてまた光なき処に影なく、我々の影をも包み込む光の世界がある。「大悲無倦常照我」と『正信偈』に謳われた世界に改めて感動した。その時、仏像マニアから念仏者へという僕自身の転換があった。

 

 

 ここにおいて、蓮如上人が「木像よりはえぞう、絵像よりは名号」(『蓮如上人御一代記聞書』)といわれたことが、自分自身の体験をとおして納得できた。故に現在の真宗寺院における仏像の存在自体が、本来の親鸞聖人が顕かにされた教えを歪めてしまう危険性も否定できないのではないかと思っている。(歴史的にも、木像が下付されるのは蓮如上人の次の代になってかららしい。)

 

 

 

 人間はどこまでも弱い存在である。神仏の前に立っては、神仏の声を聞こうとせず、自らの願いを一方的に神仏に頼むのが人間の姿である。仏像もまた、そんな人間の為に人間が作り出したものに過ぎないという一面もある。大切なことは、仏像のその向こうにある、仏の声、如来の本願に耳を傾けることである。こちらからの願いを仏に祈るでなく、仏から自分に懸けられている“いのち”の願いを聞き感じとることこそが大切なのだ。

 

 

「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ。」(『教行信証』総序)

 

 

 仏像を前にしては、仏像を戴かなければおられない人間の弱さに心を致し、「私は愚かでありました。」と念仏申す身になることが肝要に思う。

 

 

やはり、真宗の教え、即ち念仏の道場である寺院の中心は、阿弥陀如来の仏像ではなく、その向う側にある「南無阿弥陀仏」であることを忘れてはならないのだと思うのである。

 

 

これからの真宗寺院は、正々堂々と「南無阿弥陀仏」の名号をご本尊と掲げて、念仏道場、聞法道場であった原点に立ち帰ってこそ、その存在意義があるのだと思って止まない。

 

 

「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」(『歎異抄』)

 

 

南無阿弥陀仏

 

 

 

<『仏像マニアから念仏者へ ③ ~ 親鸞聖人に遇う ~ 』に続く・・・>

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【本文用語説明】

 

○『嘆仏偈』 [たんぶつげ]

・・・親鸞聖人が“真実の教”と戴いた『大無量寿経』(大経)にある偈文(詩)で、法蔵菩薩が世自在王仏を讃嘆し、仏の証明を請いつつ自らの志願を述べたもの。大谷派では、頻繁にお勤めに用いる偈文である。

 この偈の最後に出てくる「假令身止 諸苦毒中 我行精進 忍終不悔(たとい、身をもろもろの苦毒の中に終わるとも、我が行、精進にして忍びて終に悔いじ)」という法蔵菩薩のいのちがけの願いは我々の心を打って止まない。

 

○ 方便法身 [ほうべんほっしん]

・・・真如そのものである法性法身が、衆生救済のために名を示し形を現した仏身のこと。

2010年7月10日 (土)

仏像マニアから念仏者へ ① ~ 仏像マニアの頃 ~

 仏像が好きだった。

 

Rimg1352昨今の仏像ブームよりずっと前から仏像が好きだった。仏像好きが高じて、中学校の時には高岡(銅器等の鋳物が有名)まで仏像(釈迦如来坐像)を買い求めに行った程である。高校の修学旅行で韓国を訪れた時には、そこでもまた仏像をお土産に買って帰ってきた。

 東京で一人暮しをするようになっても、祭壇をつくってその仏像を祀った。ライブの前にはその祭壇の前で、『般若心経』をあげたり、『正信偈』をあげることもあった。部屋に友達が来る時には「俺、仏像マニアだから、部屋に仏像あるけど、ビックリしないでね。」と一言付け加えなければならなかったし、彼女を部屋に最初に招き入れる時にも、十分な説明が必要であった()

【左写真は、密教に惹かれていた頃の祭壇】

 

 

Rimg2995 僕が仏像に惹かれた一番の切っ掛けは、当時憧れて止まなかった音楽家・長渕剛の影響だろう。インドを旅して『ガンジス』という人間の死を見つめた歌が書かれた頃である。そこから、仏師・西村公朝先生を知り、師の仏像に関する著作を読み漁ったりした。特に『祈りの造形』という本が好きだった。仏像は祈りの造形である。河原の石ころにも仏さんの絵を描いたり、名号を書くだけでもそれが仏さんになるという、一切衆生悉有仏性という仏性思想に基づく師の仏像に対する優しげな視点が大好きだ。【右写真は西村公朝先生の色紙】

 

 

 僕はお寺のお堂ですすけた仏像に手を合わせるのが好きだった。仏像に遇いに京都・奈良の寺を巡りはじめた。お寺ではなかなかお遇いできない仏さまに遇いに博物館へも足を運んだが、やはりお寺のお堂で御目にかかるのが一番だった。博物館や美術館でお遇いする仏像は、やはり美術品・芸術品として飾られ、仏像を通して感じられる宗教性や祈りの歴史があまり感じられず淋しかった。

 

Rimg2997 東寺、三十三間堂、浄瑠璃寺、東大寺、唐招提寺、法隆寺等々、好きなお寺は沢山あった。中でも三十三間堂の1001体の千手観音と東寺の立体曼荼羅には何度も足を運び、その前に立つ度に鳥肌が立つのを禁じ得なかった。そこには立ち尽くして動けない程の圧倒的な力を感じるようだった。

【左写真は、寺院巡りをしていた頃の御朱印帳】

 

 

 このように、得度して(浄土)真宗の僧侶となり親鸞聖人の顕かにされた教えに導かれるまでの僕にとって、“仏教≒仏像”であった。仏像を通して仏を感じる、仏像に手を合わせることによって仏に手を合わせるといった具合に・・・。

 

 

 

 真宗王国・石川県で生まれ、幼年時代には祖父の膝の上で『正信偈』のお勤めを聞き育ったのだが、仏像マニアであった頃には、真宗の教えからは遠ざかっていたといって良い。密教仏が好きだったことから、思想的にも密教に惹かれたところがあったし、その頃は『正信偈』よりも『般若心経』に親しんだ。

 

 仏像マニアの視点でいえば、ほとんどの浄土真宗のお寺には阿弥陀如来の立像があるのみで、本山にいたっても国宝や重文の像はなく、今思えばなんとも勿体ないことではあるが、当時は正直、なんとも物足りない気がしていたのも事実であるし、東本願寺の御影堂(宗祖親鸞聖人の御真影を安置)が阿弥陀堂(本尊:阿弥陀如来)よりも大きいことに対しても違和感を抱いたのも事実である。

 

 

 ところが、ひとたび親鸞聖人の言葉に触れ、心でそれを感じるに、仏像マニアだった僕の真宗に対する視点が180度ひっくり返るのであった。

 

 

<『仏像マニアから念仏者へ ② ~ 真宗における本尊 ~ 』に続く・・・>

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