【雑記】 ダラなもんが衣着とるんやなぁ。
今日は、練馬の真宗会館で開かれている、日曜礼拝の補導(スタッフ)としてお手伝いをしてきました。僕自身日曜礼拝では初めてとなる感話も担当させて頂き、先日見学させてもらった美川仏壇のすす洗い(【 http://dara.way-nifty.com/blog/2010/11/post-615c.html 】)から感じたことをお話しさせて頂きました。
我々がご本尊を安置し、日々向き合うお内仏(仏壇)が分解でき、繰り返し修理して金箔を貼り直して再び使えるものであるということが、古くなったら新しいものに買い換えれば良いという現代に生きる我々にとって、「大切なものは何か?」ということについて問いかけてくれている、そんな気がします。
今日のご法話は、東京宗務出張所長・田代賢治先生の 『無三悪趣の願』 についてのお話でした。その中で、自分の経験を物差しにしている我々人間は、逆に自分の経験によって人間を狭くしているのではないかというお話が、心に残りました。またお話の中で紹介された「浄土とは苦悩共同体」であるという安田理深先生の言葉も深く感じたところです。
ご法話に引き続き、座談会に移ります。そこでの司会も補導の大切な役割です。ご門徒の方々と膝を付き合わせて話し合う、聞法が命の真宗にとって、とても大切な時間です。いや、「ご門徒の方々と」というと何か違和感があるような、御同朋・御同行が相寄り集って語り合う、そういった方が良いのだと思います。それが僧伽(サンガ)の姿でしょう。
僧侶ではないご門徒(ここではあえて、わかりやすくこういう言い方をさせて頂きます)と膝を付き合わせてお話をさせて頂く時、衣を着ている我々(僧侶)とは、真宗においてどのような意味があるのだろう?ということをよく考えます。「僧侶だから」とか、「僧侶ならば」とか、何か特別な存在として自分を枠にはめ込んで捉えてはいないだろうか?儀式の執行と教法の宣布が、真宗大谷派僧侶の役割ではあるけれども、あくまでもそれは、人に対して何かを教えるという姿勢であっては、どこまでもそれは人間の傲慢さであり、如来のお力を疑ういわゆる仏智疑惑(ぶっちぎわく)の自己に埋没してしまいます。
我々が何故、衣を着ているのか?
「お前、衣を着とるからといって勘違いするなよ。」という如来の声を聞く為のようにも思います。そしてまた、衣を着ることによって ”わかったような顔をする” 自分自身に 「嗚呼、また仏に背いていた。」と気づくこと、そしてまた念仏する身になること、これが大切なのかなぁと思っています。
つまりは、陀羅(アホ)なもんが衣着とるんです。それだけしかないのかもしれません。
今日の座談会で、大切なことに気づかさせて頂いたような気がします。縁あって念仏にお遇いになった方々と膝を付き合わせてお話しさせて頂き、その出遇いに喜びを感じ、そしてまた陀羅な自分にため息と頷きの日々が続くのでしょう。
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