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2016年1月

2016年1月17日 (日)

【お内仏[ないぶつ](仏壇)に座る ②】  ~本尊<一番大切なこと>~

 「お内仏に座る」のコーナーでは、皆さんのご家庭にあるお内仏(仏壇)についてのアレコレを連載します。(浄泉寺報第2号[2015年秋彼岸発行]から転載)
 

Img_0392 浄土真宗のご本尊は阿弥陀如来(南無阿弥陀仏)です。私たちは、仏様といえば人間のような姿かたちをした仏像や仏画をイメージしてしまいます。しかし、仏様とは本来姿かたちあるものではなく、私一人の姿をありのままに映し出してくださる鏡のような大きな「はたらき」なのです。あるいは、私自身の誤魔化しのきかない影を照らし出す光のような「はたらき」といってもいいと思います。ところが「はたらき」といったところで、人間には何のことやらさっぱりわからないので、姿かたちある仏像や名号(「南無阿弥陀仏」や「帰命尽十方無碍光如来」、「南無不可思議光如来」といったことば)で表わすことによって、はじめて私たちは私の真実を知らしめるその「はたらき」に手を合わすことができるのではないでしょうか。私たちが亡き方を通して仏様に手を合わせるきっかけをいただいたのと同じように、お釈迦様という人を通して、仏様の大きな「はたらき」に出遇った人たちが、お釈迦様をモデルとして今日仏像として伝わっている姿で仏様を表現したのではないかと思います。
 
 仏様を表わす「如来」という言葉は、「如」から来た、つまり真実から来たという意味です。そのような仏様の大きな「はたらき」に出遇ってみれば、私という人間は「どこまでも真実に背く者であったなぁ」ということだけが見えてきます。自分では絶対に気づくことのできない、直そうとしても直せない「自分」を仏様は教えてくれるのでしょう。
 
 そのように真実から逃げる私を追いかけて、「これでもか!」と私に私の真実を教えようとしている真剣さが、私たちがいただくご本尊・阿弥陀様の”立って”いらっしゃる姿に表わされているのだと感じます。太陽が真東から昇り真西にまっすぐ沈むこのお彼岸、ご本尊に向き合うことをとおして、決してまっすぐには歩ききれない私を教えられることです。
 

 

(釋亜世)

 
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Mitsuorihonzon仏壇を置くスペースがない場合には、このような小型の三折本尊もあります。立派な仏壇でなくとも、生活の場にご本尊を安置することが大切です。中央に阿弥陀如来立像、向かって右側には「帰命尽十方無碍光如来」、左側には「南無不可思議光如来」という2つの名号で阿弥陀様のはたらきが表現されています。

2016年1月 5日 (火)

【お内仏[ないぶつ](仏壇)に座る ①】  ~私がそこに座る~

 「お内仏に座る」のコーナーでは、皆さんのご家庭にあるお内仏(仏壇)についてのアレコレを連載します。(浄泉寺報創刊号[2015年夏発行]から転載)
Folkcraft_02 
 
 まずは、左の写真をご覧ください。何か足りないものはありませんか?
 
 
 位牌?遺影?
 
 ちょっと意地悪な質問だったかもしれません。
 
 写真に足りないもの(正解)は、手を合わせてお参りする人です。お内仏をお飾りすることをお荘厳[しょうごん]するといいます。そのとき、どうしても私たちはお飾りが正しいかどうか、そのことばかりにとらわれて仏壇を単なる物として見てしまいがちです。
 
 しかし、一番大切なことはご本尊[ほんぞん]とその前に貴方が座り、手を合わせることです。「巻頭言(※後述)」でお話したように、仏様の教えという鏡の前に私がまず座らなければ、鏡に私が映ることもなく、何もはじまりません。
 
 浄土真宗では、お仏壇のことを「お内仏[ないぶつ]」と呼び習わしてきました。このことは、外から物として仏様を見れば仏様の壇(仏壇)、私がそこに身を据えることではじめて、仏様の教えが鏡のような役割をしてくださって私を映し出し、はじめて私にとってのお内仏になることを表しているように思います。
 
 ちなみに、皆さんのお宅のお内仏にお参りさせていただくと、ご位牌や遺影でご本尊が隠れてしまっている場面に遭遇します。亡き方を通して仏様の教えに遇った、そのことはとても大切なことですが、亡き方とここに手を合わせて座る私とを一つの世界でつないでくださるのが、浄土真宗のご本尊(阿弥陀如来・南無阿弥陀仏)です。次回は、ご本尊についてお話します。
 
 
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 【巻頭言】
 
 仏教(浄土真宗)は、生活の中にこそあります。葬儀やご法事といった仏事を勤めることはもちろん大切なことですが、そこで出遇った仏教は、その場かぎりのものではなく、私一人の人生に不断に語りかけ続けてくれるものです。
 
 仏様の教え(お経)は、鏡に譬えられます。突然ですが皆さん、自分の眼で直接自分の顔をご覧になったことはありますか?
 
 毎朝顔を洗う時、鏡を通して自分と向き合ってはじめて自分の顔が見えるように、人間の本当の姿は自分の眼で直接見ることは絶対にできません。なぜならば、人間はどこまでも自分を良く見せようと自分をどこかで誤魔化して生きる存在だからです。そんな人間のありのまま、誤魔化しの利かない本当の姿を仏様は見抜いていて、私一人に届けるのが仏教というものです。まさに眠気眼の私の顔を映し出してハッと目覚めさせる鏡のようなものが仏教であり、私を私としてありのままに照らし出す大きな働きが仏様(如来)といわれている存在です。
 
 そして、毎朝鏡を見て自分自身の顔を確かめるように、仏様の教えを通してはじめて「嗚呼、私はここにいるなぁ」と今を確かめ生きていくしかない毎日が続いていくのです。
 
                                  

(釋亜世)

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    ”真宗大谷派僧侶でもあるフォーク・シンガー、松田亜世の5年ぶりのアルバム。ごく当たり前の暮らしを慈しむ心持ちが伝わってくる歌だ。老いを感じる年代になって初めて理解できる心情があると気づかせる「ホームにて」や「迷いの海」などにホロッとする。彼なりの説法かとも思えてくる。”
    (雑誌『CDジャーナル』)


  • 松田亜世: シングル
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    松田亜世: おかえり


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    ”「越のしらやま」は故郷・加賀の白山をエンヤトットのリズムで唄う。アコースティック・ギターとヴァイオリンをバックに日本の夏の情景を描く「盂蘭盆会」、 3フィンガーのギターが印象的な「渇愛」など、古き良きフォークの味も。”
    (雑誌『CDジャーナル』)


  • 松田亜世: 思ひ出雪 [Maxi]
    “世代の壁を超え、普遍性を持った真摯なアコースティック・チューンだ。” (雑誌『CDジャーナル』)

  • 松田亜世: がんばるまっし
    “故郷を離れた者に向けての金沢弁応援歌「がんばるまっし」、花街の悲喜を綴った「廓唄」、漫才師の志を謳った「新宿三丁目」などどれも物語性が高い。初期の長渕剛風の繊細で少し泣きの入った歌声から、世情を変えたいという想いも伝わる。”
    (雑誌『CDジャーナル』)

    “生まれ育った文豪の街・金沢の影響からか文学の香りのする歌詞の世界が素晴らしい。曲風は70年代フォーク/歌謡曲を彷彿させる、しっとりとしながら深い情感のようなものがこもったメロディが印象的だ。”
    (雑誌『Player』)

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