カテゴリー「【本】」の記事

2011年1月 9日 (日)

【本】 水島見一先生を訪ねて来ました。

110109_105601 【先生の著書 『信は生活にあり 高光大船の生涯』 ( http://dara.way-nifty.com/blog/2010/10/post-ad5b.html )に一筆頂きました。】

 

 昨日練馬の真宗会館に、東京滞在中の水島見一先生を訪ねてきました。7月末に京都の大谷大学の先生の研究室でお会いして以来、半年ぶりの再会でした。

 

 先生との出遇いは、まさに1年前の真宗会館における短期教師資格取得コースで真宗学を教えて頂いたことに始まります。その出遇いの場での再会、なんとも嬉しい時間でした。

 

 読ませて頂いた本のことや、自分自身の人生のこと、色々なことをお話しさせて頂きました。そして、先生の大著『近・現代真宗教学史研究序説 真宗大谷派における改革運動の軌跡』【 http://dara.way-nifty.com/blog/2010/12/post-8fe0.html 】に書かれていたとおり、「大谷派なる宗教的精神」を他ならぬ自己自身に明らかにすることによる「真宗再興」の志願を改めてお聴きすることができ、心震えるひとときでありました。

 

 

 最後に、最近読ませて頂いた水島先生の講述録を紹介しておきたいと思います。

 

110109_115001  真宗大谷派旭川別院発行の全4巻からなる『同朋研修会講演録』です。(【 http://potato9.hokkai.net/~betsuin/page020.html 】)

 

 そこには、「そくばくの業」を持つ私に生きて働く躍動する仏道が書かれています。殊に印象に残った話として、高光大船先生のご長男・高光一也さんは、ひっくり返ったお茶を見て、仏教がわかったそうです。一旦ひっくり返ったお茶は、二度とは元に戻らないという事実に気づいたということです。ひっくり返った事実は消えない、このことを「業(ごう)」というと教えて下さっています。自らの業を「業」と知り、「それでよかった。」という世界に躍り出るしか、我々が業から解放される道はないということです。

 

 どうにもならない自分の業と向き合い、業に泣き、業に破れ、業に頭が下がる。そんな毎日なのかもしれません。

 

 

 南無阿弥陀仏

 

2010年12月 6日 (月)

【本】 『近・現代真宗教学史研究序説 真宗大谷派における改革運動の軌跡』 水島見一

Mizushimakenichikingendaishinsyugak この本の著者・水島見一先生との出遇いについては、『信は生活にあり 高光大船の生涯』( http://dara.way-nifty.com/blog/2010/10/post-ad5b.html )でふれさせて頂きました。その著書『信は生活にあり 高光大船の生涯』や、『大谷派なる宗教的精神』を読み、また直接先生とお話させて頂く中で、先生の歩まれる仏道に感動をもって出遇わせて頂きました。

 

 感動は人を動かしますね。この本の定価、税込で¥15,750-。僕が生まれてこの方買った本の中で一番高価な本ですが、ジュンク堂で見つけ、迷わず手に取りレジに並んでいました(笑)。『信は生活にあり 高光大船の生涯』を読ませて頂いた喜びをお伝えしたところ、先生から直接「高価ですが、特に(この本の)第2章の文章(曽我量深、高光大船、暁烏敏)など読んでみて下さい。」とのメールを頂き、その2日後にはジュンク堂書店に走っておりました。

 

 全858ページの大作です。読み終えるまでに1ヶ月とちょっと掛かりました。内容は明治時代の清沢満之先生以降、戦後の同朋会運動[どうぼうかいうんどう] の展開に至るまでの先学の七転八倒の求道の日々が綴られています。

 

 「私は救われる手本ではなく見本である。」と高光大船先生の言葉にありますが、徹底して求道し破れ回心した先学の、この本には躍動し、まさにロックともいうべき、心震わさずにはおれない仏道が克明に記されています。

 

 来年は、宗祖親鸞聖人750回御遠忌を迎えます。そしてその翌年、同朋会運動の50周年の節目を迎えます。

 

 

 同朋会運動とは・・・

 「真宗同朋会とは、純粋なる信仰運動である。それは従来単に門徒と称していただけのものが、心から親鸞聖人の教えによって信仰にめざめ、代々檀家と言っていただけのものが、全生活をあげて本願念仏の正信に立っていただくための運動である。その時寺がほんとうの寺となり、寺の繁昌、一宗の繁昌となる。然し単に一寺、一宗の繁栄のためのものでは決してない。それは『人類に捧げる教団』である。世界中の人間の真の幸福を開かんとする運動である。」

 

 と宣言された運動です。念仏のサンガであることこそ、宗門のいのちなんですね。

 

 「我々は今、間違いなく『真宗再興』の時に直面しているのである。」とは、水島先生の本書あとがきの言葉です。そして、「真宗再興」とは、「大谷派なる宗教的精神」を他ならぬ自己自身に明らかにすることであると。

 

 今日は、清沢満之先生の月命日です。我々は常に「自己とは何ぞや。」、自分自身と向き合ってゆく他ありません。

 

 そしてまた、水島先生の言葉が心に響いてきます。

 「一つ一つ自分の信を確かめつつ、日々を送ることだけが、私たちに与えられている人生なのでしょう。自分の信と言っても、ああまた仏に背いていた、という自分を確かめるだけです。」

 

 ここに僕の、帰命するべきサンガの原点があるのです。

 

2010年10月22日 (金)

【本】 シリーズ親鸞〈第5巻〉「親鸞の教化 和語聖教の世界」 一楽真

Shinranichiraku  宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌の記念出版として刊行された、シリーズ親鸞の第七巻・延塚知道先生の「親鸞の説法-『歎異抄』の世界」 【 http://dara.way-nifty.com/blog/2010/10/7-4e5a.html 】 に引き続き、シリーズ第五巻・一楽真先生の「親鸞の教化-和語聖教の世界」を読みました。

 

 一楽先生といえば、僕が昨年から受講している新宿親鸞講座の講師をされておられます。その講座では、「現代の闇を照らす仏教-『大無量寿経』に学ぶ-」と題して、親鸞聖人が真実の教えと仰いだ『大無量寿経』を中心にお話を伺っています。

 

 その中で先生は、「関係の中で苦しみ傷つきあうことを超えてゆくことが仏教の課題」であるとお話しされておられます。この本の中でも、その課題は至る所で語られます。

 

 

 さてこの本は、日頃我々真宗門徒が『正信偈』と共にお勤めする和讃をはじめ、親鸞聖人が和語で書き表した『唯信鈔文意』や『一念多念文意』、あるいは親鸞聖人の手紙からなる『消息』から、我々が問いかけられていることが論じられています。

 

 これらの和語聖教は、公的文章の意味合いもあった『教行信証』とはまた趣を異にし、親鸞聖人の生の声がより近くに聞えて来るように感じられます。それは、弟子の唯円によって、親鸞聖人の ”如来よりたまわりたる信” に裏付けされた言葉の力をあまねく引き出して書き記された『歎異抄』と、親鸞聖人がその身を捧げた『教行信証』との間の、ある種中間に位置するものなのかもしれません。

 

 

 本論とは少し離れますが、この本に紹介されていた御消息の中で、寺の生まれではない在家出身の僕自身の ”信” に関わることとして注目しておきたい一文があったので、そのことを記しておきたいと思います。それは、『御消息集(広本)』の第九通にあります。

 

 「世々生々に、無量無辺の諸仏・菩薩の利益によりて、よろずの善を修行せしかども、自力にては生死をいでずありしゆえに、曠劫多生のあいだ、諸仏・菩薩の御すすめによりて、いま、もうあいがたき弥陀の御ちかいに、あいまいらせてそうろう御恩をしらずして、よろずの仏・菩薩を徒(あだ)にもうさんは、ふかき御恩をしらずそうろうべし。仏法をふかく信ずるひとをば、天地におわしますよろずのかみは、かげのかたちにそえるがごとくして、まもらせたまうことにてそうらえば、念仏を信じたる身にて、天地のかみをすてもうさんとおもうこと、ゆめゆめなきことなり。」

 

 僕は、以前このブログの『仏像マニアから念仏者へ』 【 http://dara.way-nifty.com/blog/003/index.html 】 に書いたように、本当の意味で念仏に出遇うまでは、密教系のお寺、或いは神社でお札や御守を授けたり、合格祈願をしたり、厄払いをしたり、まさに「かなしきかなや道俗の 良時吉日えらばしめ 天神地祗をあがめつつ 卜占祭祀つとめとす」(愚禿悲歎述懐 和讃)という生き方でした。ところが、念仏の教えに出遇い、 ”陀羅” な自分が照らし出されてみると、どんなに他を頼ったところで、縁次第ではどのようにも転がり堕ちゆく ”虚仮不実のわが身” に気づくばかりであります。とはいえ、他宗の寺院や神社を拝まないということも出来ず、ある種の葛藤が自分の中であったのです。

 

 そんな中、今紹介した御消息の言葉から、ひとたび念仏に出遇ったならば、諸仏・諸菩薩、天神地祗への拝み方が転換するのだということが見えてきました。 ”陀羅” な自分を見つめることなく、気づくことさえなく、外に外にと原因を求め、他に他にと願いを掛けていた自分でありましたが、そんなことで助かるような生やさしい自分ではありませんでしたと頭が下がったところに、そのような ”陀羅な自分” に気づくご縁を結んで下さった諸仏・諸菩薩・天神地祗を南無阿弥陀仏と拝む道があるのではないかということを僕は思うのです。

 

 このように、門弟の質問や現状に応えて書かれた御消息の親鸞聖人の生の声に、我々が我々自身の問題や課題を解く鍵があるのかもしれません。

 

 話は本に戻りますが、この御消息について一楽先生は、「ただ念仏に出遇うには多くの諸仏・菩薩の御すすめがあったからであり、さまざまな神祗等に護られてきたことを思えば、多くの縁に感謝することはあっても、決しておろそかに思うことはないはずである。この意味で、神祗不拝という信心の明確さと、他の信仰を認めるということは矛盾するものではなく、親鸞にとっては同時のことであった。」と書かれておられます。

 

 

 最後に、この本でも語られますが、「教化」といっても、親鸞聖人は決して「教えよう教えよう」とはされていないことが親鸞聖人が ”愚禿釋親鸞” たる所以なのだと思います。どこまでいっても、教えを聞く者であったのが親鸞聖人であり、その教えに学ぶ姿、その求道の姿から、後の人は教えられ、我々もまた教えられてゆくのだと思います。

 

 親鸞聖人、85歳を過ぎてなお、

 「浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし」(愚禿悲歎述懐 和讃)

と謳われる姿から、我々はただただ教えられるのです。

  

2010年10月21日 (木)

【本】 『それで死んでも悔いなかろう -私の出遇った暁烏先生-』 林暁宇

Hayashicyogyusoredeshindemo  「 『私の一生はこの先生(清沢満之)を拝むという一事に尽きる、一生だけでない死後までも拝み通したい。』 こういう師との出遇いですね。そして自分のこの身体をこの世に生み出すということで、このことを成り立たせてくれた自分の母、この二つのものに出遇い、それを拝む。それが信心の具体的な内容になっている。こういうのが暁烏敏先生の世界なのです。」と、暁烏敏先生の最後の弟子と言われる、林先生はこの本の中で暁烏先生のことを語っておられます。

 

 この本は、先にこのブログでも紹介した、『坊主は乞食だぞ』 【http://dara.way-nifty.com/blog/2010/10/post-9090.html】 の著者・林暁宇先生の4つの講演をまとめた本です。金沢の老舗の本屋で偶然見つけました。つい数週間前に読んだ、『坊主は乞食だぞ』の印象が非常に強かったので、迷わず手に取りました。さらに、帯の言葉がまた良かったのです。

 

 そこには、「朝には経典を講じ、夕には恋の詩を書き、ある人からは生き仏と拝まれ、ある人からは悪魔とののしられつつ、明治・大正・昭和の激動の時代を生きた巨人暁烏敏の姿を、最後の弟子が語る。」とありました。

 

 

 林先生のお話に一貫して流れるものは、 ”暁烏敏先生との出遇い” それに尽きるのだと思います。「ああ、あんた方を一ぺん暁烏先生に会わして上げたかったなぁ。」という思い一つで語られるのが、この本に収められた4つの講演だったのだと思います。それは、暁烏敏先生が清沢満之先生を拝み続けたように、その清沢満之先生に出遇って下さった人として暁烏敏先生を拝み続けた林先生の生き方だったのではないでしょうか。そして、「仏さんはお姿を拝むだけでいいんでしょう。それだけで大事なことが聞えてくるのでしょう。暁烏先生という人は、あらゆる世界を通られ、どんなことをも経験され、それをみんな脱け出られて、そういう仏さんになっておいでた人なんです。拝むだけでいい存在だったんです。」と林先生は言い切られておられます。

 

 真宗は「出遇いにひらかれる仏教である。」などとよくいわれます。”よき人” との出遇いが、即ち(時を隔てず)、南無阿弥陀仏の本願の歴史に出遇うことであり、仏さんの光に遇うことにより、自らの闇が照らし出され、つまり陀羅(ダラ=アホ)な自分が照らし出されてくるということなのだと思います。

 

 林先生はさらに、「ほんとうにどうしょうもない自分だということを、身にこたえて知られたのが暁烏先生でした。同時にまたそういう自分を捨てられないで、そのまま助けてくださる如来さんを、これほど徹底して信じて生きられた人はないと思うんです。」と語られています。

 

 また、帯に「ある人からは生き仏と拝まれ、ある人からは悪魔とののしられ」とありますが、「暁烏先生の、善いことも悪いこともどんなことをも経験されて、そして助かっていかれたご一生の姿を見たら、どんな者もほんとうに助かるんだ、如来の本願というものは、ただもうどんな者をも捨てられないのだ、ということがわかる。」とも語って下さっています。それはやはり、「『私はこんな奴です。』と、愛想の尽き果てた自分をすっかり投げ出した時に、はじめて如来さまに会うんです。」と語られた清沢満之先生に導かれた世界だったのだと思います。

 

 それは、矛盾する自己、割り切れない自己をもまるごと引き受けて生きてゆく姿なのではないでしょうか。

 

 

 最後にこの本に紹介されていた暁烏敏先生の歌を紹介しておきたいと思います。

 

 ”自らの愚かさを知りしよろこびを南無阿弥陀仏と称えつるかな”

 

 

 どこまでいっても、陀羅な自分であります。

 

2010年10月18日 (月)

【本】 『信は生活にあり 高光大船の生涯』 水島見一

Mizushimakenichishinhaseikatsuniari  この本の著者・水島見一先生との出遇いは、今年2月に受講した東京の真宗会館における、大谷派教師資格取得コースでした。先生にはそこで、まる3日間に渡り、真宗学を教えて頂きました。

 

 その講義の中で出遇った言葉に、僕の心を捉えて離さない言葉があったのです。

 

 

 「夜明けの前は闇にきまっている。闇に先立つ夜明けはないことである。人生に迷わぬ限り人生の闇は知る限りでなかろう。況んや闇の晴れた喜びなど闇に逢着しない人のこれに参列する資格などあろう道理はないのである。」

 

 

 加賀の三羽烏の一人、高光大船先生の言葉でした。感動しました。目が覚めました。この言葉に出遇えただけでも、コースを受講してよかったと思いました。水島先生はさらに、「絶対に救われることのない私の自覚において、はじめて救済される。」と教えて下さいました。そして、 ”救済される” とは「長い間よく迷っておりました。」ということに他ならないということも。つまり、 ”救われないことが救いである” という、まさに回心の姿がそこにありました。

 

Mizushimakenichiootanihanaru  そして僕は、水島先生の著書 『大谷派なる宗教的精神』 を改めて読み直し、清沢満之、暁烏敏、曾我量深、さらに高光大船という諸師の言葉に触れ、心待ちにしていたのが、この 『信は生活にあり 高光大船の生涯』 という本でした。

 

 「高光大船は正直な人であった。正直に苦悩し、そして真っ裸で如来の懐に飛び込み、如来とともに生活した。」と水島先生は記しておられます。その高光大船先生の言葉をその生涯に添いながら紹介し、痛い程までに ”あるがまま” の真の仏道を教えて下さっているのが、この一冊なのです。「仏法は客観的に聞いて頭で理解するものではなく、苦悩の身が聞き、聞いた身が深く頷くところに真の仏法がある」と・・・。文化的教養的でわかりやすい仏教が流行する現代への警鐘、即ち水島先生の歎異の書であると僕は受け取っています。

 

 徹底した求道生活に生きた高光大船先生の言葉を感得すれば、我々の日常生活において ”よし” とされるヒューマニズムが、いかに脆く虚しいものであるかということを感じざるを得ません。「決めるな、決めるな」というのが、高光大船先生の常の仰せだったといいます。所詮、人間の ”打算は破算に終わる” のです。そこを打ち破った時に、”生も死もただひとつ” という我々が還るべき ”いのち” のふるさとが即座に現われてくるのではないでしょうか。

 

 

 今年の夏、京都の大谷大学で水島先生にお会いする機会を頂きました。その時、僕自身が直面する迷いを先生に打ち明けたことがありました。

 

 「道は決まっとるやないか。」

 

 それが、先生の言葉でした。それは、業に流され、そしてまた周りをも巻き込みながら生きるしかない流業の身である自分をまるごと引き受けて生きてゆくしか道はないということを教えて下さったのです。ここにおいて、生活の問題はまさに信仰の問題と不可分のものになりました。まさしく、信は生活にあるのです。

 

 業に流され、流れ流れて、挙句の果てにその流れの留まったところで、それでもなおこのわが身をまるごと受けいれるしかないのが人間なのかもしれません。

 

 ここにきて、「直道は直参道であります。直ちに仏道に参ずるの道であります。直ちに人間を止めるの道であります。直ちに他力の実行を試みる道であります。仏とは拝むものでも見て置くものでもありません。それは食って血にし肉にするものであります。」といった高光大船先生の言葉を深く、痛く味わうのです。

 

2010年10月14日 (木)

【本】 これから読む本

101014_181901  母方の祖母の一周忌に伴う帰省から今日、東京に戻ってきました。

 

 金沢では、老舗の本屋・うつのみや書店で林暁宇先生の『それで死んでも悔いなかろう-私の出遇った暁烏先生-』と、鈴木大拙先生の『宗教経験の事実』という妙好人・讃岐の庄松の信仰生活について書かれた本を買ってきました。金沢所縁の方の本の特設コーナーが設けられていて、帰省の度に寄るのですが、東京の書店ではなかなかお目に掛かれない本もあって、毎回楽しみにしているのです。

 

 東京に戻ると、注文していた水島見一先生の発行されたばかりの『信は生活にあり 高光大船の生涯』が本屋に届いたということで、早速受け取りに行って来ました。夏に京都で先生にお会いして、この本のことを直接お聞きし、楽しみにしていた本だったので、これから読むのが楽しみです。

 

 また本のレポートは後日に譲りますが、読書の秋と相成りそうです。

 

2010年10月 8日 (金)

【本】 シリーズ親鸞〈第7巻〉「親鸞の説法『歎異抄』の世界」 延塚知道

Shinrannobutsuka_2  いよいよ来年に迫った宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌の記念出版として刊行された、シリーズ親鸞の第七巻・延塚知道先生の「親鸞の説法-『歎異抄』の世界」を読みました。

 

 全体を通して著者の延塚先生の求道的な視点が貫かれていて、まさに「生きた仏道」から溢れ出る言葉には、力がありました。ある先生から、「現大谷大学の教授の中で聞くべき、読むべきは延塚先生の話である」と教えて頂いたこともあるのですが、以前読んだ延塚先生の「『他力』を生きる-清沢満之の求道と福沢諭吉の実学精神-」からも感じた、親鸞聖人や清沢満之といった師との出遇いの感動から湧き起こる言葉の力をこの本からも深いところで感じることが出来ました。

 

 延塚先生といえば、前回紹介した林暁宇先生の『坊主は乞食だぞ』(http://dara.way-nifty.com/blog/2010/10/post-9090.html)の中でも紹介されており、林暁宇先生も延塚先生の師に対する尋常ならざる信とその人柄に深く心を打たれたと書かれていました。

 

 ”仏道の道理と世間の常識とのせめぎ合いの中で、命をかけた求道において自力を尽くすことが最も大事であり、自力を尽くして自力に破れることで念仏を信じることが出来る。”というような内容の言葉が非常に心に迫ってきました。

 

 これは、清沢満之先生も「何が善だやら悪だやら、何が真理だやら、非真理だやら、何が幸福だやら不幸だやら、一つも分かるものではない。我には何も分からないとなった処で、一切の事を挙げて、悉く之を如来に信頼すると云うことになったのが、私の信念の大要点であります。」(『我が信念』)と語っておられるところです。

 

 

 現実の問題にぶつかりながら、そしてそれに壊れそうになり破れながら、そんな時に『歎異抄』のことばが響いてくるのです。関係性の中で、あらゆることを与えられた中に生き、その丸ごとの自分を丸ごと受け容れて生きてゆく道・・・。

 

 「いずれの行のおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。」(『歎異抄』)

 

 なかなか機会に恵まれないのですが、延塚先生のご法話を是非お聞きしたいと思います。その思いが、この本を読んで一層強く湧き起こってきました。

 

2010年10月 3日 (日)

【本】 『坊主は乞食だぞ』 林暁宇

Hayashicyogyubouzuhakojiki  「坊主は乞食だぞ!世間では働いてさえおれば、その働きに応じて報酬を要求できるが、坊主はその要求する権利を放棄して生きるのだ。だから、恵んでくださる方があれば”ありがとう”と、いただけばいいが、もしも与えられなければそれっきりだ。つまり、自分の命を相手の手の中に握らせておいて、この私を生かすも殺すも好きなようにしてください、と言って生きるのが坊主だ。」

 

 これは、今回ご紹介する本の著者・林暁宇先生が、暁烏敏先生の許で得度する時に言われたことばだそうです。

 

 「一切を如来におまかせした者は、常に死の上に立って生きるべきであります。殺されるも餓死も元よりおまかせした身であります。既に生死をおまかせした者にどうして衣食の心配がいりましょうか。もしお与えがあればこれをいただき、お与えが尽きれば静かに死んでゆくばかりであります。」(『絶対他力の大道(意訳)』)という清沢満之先生の教えに生きた、暁烏敏先生はじめ、浩々洞(こうこうどう)の先達の”信に生きる姿”だったのだと思います。

 

 この本には、暁烏敏先生の様々なエピソードも収められているのですが、ある時、お孫さんがグローブを買って欲しいと暁烏先生におねだりしたところ、「お寺におる者は乞食だから、クラスの中で一人でも(グローブを)持たん者がおるあいだは、(お前は)持つことはならん。」と仰ったそうです。お寺を仏さんからあずかった仏道修行の道場との徹底的な意識からのことばだったのだと思います。と同時に、お寺で生活する人びとを仏さんの御用をつとめる大事な仏弟子として、大切にされ、どんなご馳走も、お寺で生活する人すべて平等に分け合っておられたということです。

 

 その他、この本で紹介されている加賀の三羽烏の高光大船先生、藤原鉄乗先生のエピソードも凄まじいものがあって、心を打たれ背筋が伸びる思いでした。余談ですが、まもなく水島見一先生の『信は生活にあり 高光大船の生涯』という本が刊行されるので、そちらも楽しみです。ともあれ、「坊主は乞食だぞ!」という生き方は、加賀の三羽烏に共通した生き方であり、大衆と共に生きる力になったのだと思います。

 

 そしてさらに、この本の著者・林暁宇先生もまた、まさしく「坊主は乞食だぞ!」という仏道を生涯生きられた方なのだと思います。林先生は、明達寺(暁烏先生が住職をされていた寺)を出て、お東のお寺も門徒も皆無の小豆島へ渡られます。その生涯もまた、「坊主は乞食だぞ!」のことばに貫かれたものだったのだと思います。

 この本を読みながら、 ”信の確立” にまっすぐだった熱き時代を感じました。いや、この本に書かれている精神を、今は昔としては絶対にいけないのです。

 

 「請うなかれ、求むるなかれ。汝、何の不足かある。もし不足ありと思わば、これ汝の不信にあらずや。」(清沢満之『絶対他力の大道』)のことばに導かれ、「坊主は乞食だぞ」、このことばに仏教の未来が見え隠れするような気がしました。

 

 

 自力無効の現実的な姿、それがまさしく僧侶というあり方なのかもしれません。僧籍をもつ自分自身の姿を、痛く映し出してくれる、そんな本に出遇わせて頂きました。

 

 南無阿弥陀仏

 

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    ”真宗大谷派僧侶でもあるフォーク・シンガー、松田亜世の5年ぶりのアルバム。ごく当たり前の暮らしを慈しむ心持ちが伝わってくる歌だ。老いを感じる年代になって初めて理解できる心情があると気づかせる「ホームにて」や「迷いの海」などにホロッとする。彼なりの説法かとも思えてくる。”
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    ”「越のしらやま」は故郷・加賀の白山をエンヤトットのリズムで唄う。アコースティック・ギターとヴァイオリンをバックに日本の夏の情景を描く「盂蘭盆会」、 3フィンガーのギターが印象的な「渇愛」など、古き良きフォークの味も。”
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    (雑誌『CDジャーナル』)

    “生まれ育った文豪の街・金沢の影響からか文学の香りのする歌詞の世界が素晴らしい。曲風は70年代フォーク/歌謡曲を彷彿させる、しっとりとしながら深い情感のようなものがこもったメロディが印象的だ。”
    (雑誌『Player』)

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